吸入トレプロスチニルを間質性肺炎合併患者に使うと、肺機能がさらに悪化すると思っているなら、それは大きな誤解です。

トレプロスチニルはプロスタサイクリン(PGI₂)の合成アナログであり、プロスタノイドIP受容体を介した強力な肺血管拡張作用と抗増殖作用を持ちます。通常の肺動脈性肺高血圧症(PAH)治療においては、エポプロステノール・イロプロストと並ぶプロスタノイド系薬剤として確固たる地位を占めています。
間質性肺疾患(ILD)に伴う肺高血圧症(PH)、すなわちILD-PHは、WHOの肺高血圧症分類では第3群(肺疾患・低酸素血症に伴うPH)に分類されます。長らく「第3群PHには血管拡張薬は禁忌または無効」という考え方が主流でした。これは大きな誤解でもありました。
2021年に発表されたINCREASE試験(N Engl J Med. 2021;384:325-334)は、間質性肺疾患(主にIPFおよびCTD-ILD)に伴う肺高血圧症患者326名を対象に、吸入トレプロスチニルのプラセボ比較試験を実施しました。主要エンドポイントである16週時点での6分間歩行距離は、プラセボ群と比較して平均31.12メートルの有意な改善を示しました(p<0.001)。これが基本です。
この結果を受け、吸入トレプロスチニル(Tyvaso®)は2021年3月にFDAからILD-PHへの適応追加承認を取得しました。日本国内においては適応の整備状況が異なりますが、グローバルなエビデンスとして医療従事者が把握すべき重要な情報です。
プロスタサイクリン製剤の中でも「吸入」という投与経路がILD-PHにおいて意義深い理由があります。吸入経路では換気が比較的維持されている肺組織に薬剤が優先的に到達し、換気血流比不均衡(V/Q mismatch)の悪化を最小限に抑えることができるからです。これは使えそうです。
参考:INCREASE試験の詳細(New England Journal of Medicine)
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa2008770
ILD-PHの診断は、臨床現場では依然として難しい問題です。その理由の一つは、ILD自体の症状(労作時呼吸困難、低酸素血症)とPHによる症状が重複するため、PHの存在が「ILDの増悪」として見過ごされやすいことにあります。
現在の診断基準(2022年ESC/ERSガイドライン)によれば、右心カテーテル検査(RHC)において安静時平均肺動脈圧(mPAP)≧20mmHg、かつ肺血管抵抗(PVR)≧2 Wood単位を満たす場合にPHと診断されます。2022年改訂でmPAPの閾値が従来の25mmHgから20mmHgに引き下げられた点は特筆すべき変更です。
ILD患者におけるPH合併率はエビデンスにより幅がありますが、IPF(特発性肺線維症)患者では約30〜40%にPHが合併するとされる報告があります。さらに重症ILD患者に限定すると、合併率はより高くなります。見逃しは多いです。
心エコーによるスクリーニングは非侵襲的で実施しやすい反面、ILD患者では肺過膨張や音響窓不良によりトリカスピッド逆流速度(TRV)の測定精度が低下することがあります。RHCを行う前段階として、BNP/NT-proBNPの上昇、心エコーでの右室負荷所見、6分間歩行距離の予測外の低下、DLCOの不均衡な低下(FVCとの比率)などが、ILD-PH疑いの重要なサインとなります。
DLCOが%FVCの比として40%未満(つまりDLCO/FVC比が0.40未満)の場合はILD-PH合併のリスクが高いとされ、より積極的な精査が推奨されます。これは一つの判断基準として使えます。
| 評価項目 | ILD-PH疑いの目安 | 臨床的意義 |
|---|---|---|
| NT-proBNP | 正常上限の2倍以上 | 右心負荷の指標 |
| DLCO/FVC比 | <0.40 | 血管障害を示唆 |
| 6MWD低下 | 150m未満または急速低下 | 重症度・予後指標 |
| TRV(心エコー) | ≧2.8 m/s | PHスクリーニング |
参考:2022年ESC/ERSガイドラインの概要(日本肺高血圧症研究機構)
https://www.jph-ig.org/
INCREASE試験における吸入トレプロスチニルの投与プロトコルは、1回3ブレス(18µg)・1日4回から開始し、忍容性に応じて最大1回9ブレス(54µg)・1日4回まで増量する方式でした。副作用として最も多く報告されたのは咳嗽(54%)、頭痛(41%)、めまい(22%)、悪心(18%)であり、これら大半は投与初期に集中しました。
吸入デバイスとしては、当初ネブライザー型(Tyvaso®液剤)が使用されていましたが、2022年には乾燥粉末吸入型のTyvaso DPI®(ドライパウダー)が承認されました。ネブライザーは1回の吸入に約2〜3分要するのに対し、DPIは数秒で完了するため、患者アドヒアランスの改善が期待されています。これは大きなメリットです。
咳嗽への対応として、日本の臨床現場で参考にできる実践的なアプローチがあります。吸入前の気管支拡張薬(SABAまたはLABA)投与が咳嗽を軽減するという報告があり、一部の施設では前投薬として短時間作用型β₂刺激薬を使用しています。ただしこれはプロトコル外の使用であるため、施設ごとの判断が必要です。
副作用管理と患者教育は両輪です。吸入手技の正確な習得なしには、薬効の発揮も副作用管理も困難になります。医療従事者として患者にデバイス操作を指導する際は、呼吸のタイミング(吸気と同期させること)・保管方法・次の吸入までのインターバル(約4〜6時間)を具体的に伝えることが重要です。
また、トレプロスチニルはCYP2C8で代謝されます。CYP2C8阻害薬(例:ゲムフィブロジル)との併用では血中濃度が上昇し、副作用が増強するリスクがあります。多剤併用が多い高齢のILD-PH患者では、処方時に薬物相互作用を必ず確認する必要があります。
ILD-PHと一括りに言っても、原疾患がIPF(特発性肺線維症)か、CTD-ILD(膠原病関連間質性肺疾患)かによって、治療戦略は大きく異なります。これが原則です。
IPFに伴うPHにおいては、2023年時点で吸入トレプロスチニル以外のPAH治療薬(ERA、PDE-5阻害薬など)は有効性が示されておらず、むしろ一部は病態悪化や死亡率増加との関連が報告されています。ARTEMIS-IPF試験(アンブリセンタン)では、IPF患者へのERA投与が疾患進行増悪および入院リスクの増加と関連していたことが示され、ERCは現在もIPF-PHへのERA使用を推奨しません。厳しいところですね。
一方、CTD-ILD(特に全身性強皮症、混合性結合組織病、SLEなどに伴うILD)では、肺血管病変が比較的目立つ場合があり、PDE-5阻害薬やERAが有効なケースがあります。全身性強皮症に伴うILD-PHでは、PAHに準じた血管拡張療法が奏効することがあり、個別症例ごとの病態評価が重要です。
このような原疾患別の戦略の違いは、ILD-PHを「一疾患」として扱うことの危険性を示しています。INCREASE試験の対象患者の約55%はIPF、約45%がCTD-ILDおよびその他のILDでしたが、サブグループ解析においても吸入トレプロスチニルはいずれのサブグループでも6MWD改善の傾向を示しました。
複合的な治療判断が必要です。IPF-PHに対しては抗線維化薬(ニンテダニブまたはピルフェニドン)との併用が実臨床では検討されることもありますが、現時点ではこの組み合わせの安全性と有効性を直接検証した大規模RCTは存在しません。治療方針の決定には多職種チーム(呼吸器内科・循環器内科・膠原病内科)での連携が不可欠となります。
参考:間質性肺疾患診療ガイドライン(日本呼吸器学会)
https://www.jrs.or.jp/publications/guideline/
ILD-PH患者へのトレプロスチニル導入後は、定期的なモニタリングが治療の質を担保します。INCREASE試験において、16週での効果判定に使われた主要指標は6分間歩行距離(6MWD)でしたが、日常臨床ではより多角的な評価が必要です。
モニタリング項目として、6MWD・SpO₂・Borg呼吸困難指数(安静・運動後)・NT-proBNP・心エコーによる右室機能(TAPSE・右室収縮期圧)・HRCTによる間質性変化の評価が推奨されます。これらを組み合わせて複合的に判断するのが基本です。
実際の投与継続判断においては「臨床的悪化(Clinical Worsening)」の概念が重要です。6MWDが10%以上の低下、入院を要する呼吸不全の悪化、右心不全の顕在化などが悪化指標とされており、こうした状況でのトレプロスチニル増量または代替治療の検討が必要となります。
INCREASE試験では52週間の追跡調査においても、吸入トレプロスチニル群でILD-PHの臨床的悪化(入院・死亡)の発生が有意に抑制されたことが示されています(ハザード比0.61、95%CI:0.40–0.92)。長期的なアウトカム改善の可能性があるということですね。
もう一つ、日常臨床で見落とされがちな視点があります。それは「酸素療法との組み合わせ」です。ILD-PH患者は多くが低酸素血症を合併しており、夜間・労作時の酸素補充はトレプロスチニルの効果を底上げする可能性があります。特に夜間低酸素は肺血管収縮を促進するため、夜間パルスオキシメトリーによる評価とその結果に基づいた酸素投与量の最適化は、薬物治療と同等に重要な管理です。
在宅酸素療法(HOT)とトレプロスチニル吸入療法の組み合わせを実施する場合、ネブライザー型では酸素流量とネブライザー駆動の調整に注意が必要です。DPI(乾燥粉末吸入器)ではその問題が少なく、HOT併用患者へのデバイス選択においてDPIが有利な場面があります。
参考:肺高血圧症治療ガイドライン2022年改訂版(日本循環器学会)
https://www.j-circ.or.jp/cms/wp-content/uploads/2022/03/JCS2022_Fukuda.pdf